粘り強さ

これまでも年に一度か二度ほど、他人の文章をよりよいものとするためにまとまった時間で密に色々とやり取りをするという機会があったのだけど、今年は特にそういう機会が多く、また逆に自分の書いたものについて、割と文章の位置づけそのものの考え方が異なる複数の人と密なやり取りをするという機会を持つこともできたのだけど、たぶんこういう作業を十数年以上やることによって身についたものは、根本的な部分ではほぼ一つ、粘り強さなのだろうと思った次第。

 

ある一つの話題について十年単位で書くという作業を続ける、と言語化すると、まあその途方もなさに今でも無理だと答えるが、実際に作業を始めてしまうと逆に、完成させるために必要な諸々の準備の途方もなさに参る一方で、時間についてはいくらでも欲しいとなる。

その辺のバランスを見て、ある課題(話題)について適切なテキストの分量と書けるべき時間の多寡を考えるのが編集という立場にある人のやることなのだと思うが、そうした編集者的視点において大事なのは、常に物理的な素材の制約や具体的な数値の限界に基づいた機械的調整を文章に対して施すことができるようにすることなのだろう。締め切りと文字数が文章を作るという風に言えるのであれば、作者が作者として文章を作る局面は思う以上に少ない。もっとも、作者と編集者という役割を一人の書き手が同時に担うという場合もあるが。

で、そういう複数の視点が未熟であっても持てるようになってくると、今度はいくつかの視点から見た課題を同時に満たすことのできる回答を導きだす必要のある難局が文章内に複数出てきて、その検討を重ねてゆく毎に完成が遅くなる。編集者的な視点としては締め切りと分量を守るためにはどのように話題を絞るか、作者的な視点からはその制限をとっぱらってまで粘り強く解決策を考えるための言い訳をどう作るか、そのような鬩ぎあいが書き手の内外に出てくるようになる。

これが厳密な締め切りが決まっている仕事であれば、締め切りこそが一巻の終わりなので編集者的な視点の権力が強いのだが、締め切りを書き手自身でしか設けることのできないものについては、逆に編集者的な視点はどうしても弱くなってくる。こういう書き物の場合には、編集者的な視点にもまた粘り強く作者を完成へと導いていくための胆力が必要となってくる。

編集者的な視点にしろ、作者的な視点にしろ、どこかで妥協が入ると結局そこが綻びとなって、それ以降に進んだ作業がある地点でロールバックせざるを得なくなってくるから、肝心なのは両者を妥協させないことだ。ロールバックすること自体は別に悪いことではないが、ロールバックが要請される際に、その理由の良し悪しというのはあって、多くの時間を無駄にするようなロールバックが入る原因はだいたい上記のような妥協とそれに起因する綻びなので、その時々で納得のいかないことがあるのであれば、いつでも立ち止まる準備をする必要がある。

 

しかしそうやって何年もかけて完成にこぎつけた文章が必ずしも素晴らしいものであるとは限らない。それがまた面白いのだけれども。