絵本『のでのでので』における「ので」遊びについて

今年はあまり文章を書くことができなかったのですが、それでも少しずつ何かを書いてはいたので、備忘録として完成途上にある文章を一つ掲載することにしました。

内容は標記の通り。

“完成途上”なのは、特に「*」以降の内容が非常にだらしないからで、ここを詰めていくためには、いまの分量の2倍ぐらい字数を費やす必要があるので、この部分の拡充を来年の抱負とします。

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 五味太郎『のでのでので』(『月刊こどものとも年中向き』1990年4月号/1993年〈こどものとも〉傑作集として再版、福音館書店。2004年復刻版、絵本館)[1]は左見開きの絵本である。この絵本はほぼ全見開きで「ので」で終わる中途半端な文が右見開き上に提示され、続きのページを捲ることを読者に促す構成となっている。通常の物語絵本のように、ページをめくる毎に話の続きが展開していくというものではなく、言うなれば捲ること自体に何らかの面白さを読者にもたらしうる絵本である。こうした構成の絵本は基本的に、ストーリーのない絵本としてナンセンス絵本という分類に入れられることが多い。例えば長新太『ちへいせんのみえるところ』(エイプリルミュージック、1978年。1998年にビリケン出版より復刊)は『のでのでので』と同じく、ページを捲った先にあるものが何かだけを読者に期待させる構成となっている絵本だが[2]、こちらはナンセンス絵本の傑作としてしばしば指摘されることがある[3]。そのことに照らせば、同様の構成を持つ『のでのでので』もまたナンセンス絵本と言って差し支えないだろう。

 もっとも、『のでのでので』の一読者である私としては『のでのでので』がナンセンス絵本であるかどうか自体は至ってどうでもよいことであり、その分類がどうであれ『のでのでので』という絵本の読み方自体が変わるということはない。ただ、その分類の真偽はともかくとして、『のでのでので』の読まれ方に照らして、“『のでのでので』はナンセンス絵本である”というこの一文における“ナンセンス”なる言葉を考える際、恐らく上記の分類的な意味、つまり、通常の物語絵本ではない、という意味以上のことを示すことが予感された。その予感とは、『のでのでので』において観察される「ので」の様相は、その接続助詞としての機能の実態の一端を明らかなものとするのではないか、というようなものだ。もう少し具体的に言うと、「ので」の前後で文法的に接続されている二つの事象は、その関係が承認される際、一見してその関係が乖離しているように思われるほどより強固にその“因果関係”が認められているのではないか、ということである。そして『のでのでので』がそのような「ので」の在り方自体を面白さとして提示する絵本であるのならば、「ので」を介して接続される二つの事象の接続が荒唐無稽であることを見せる、という意味で“ナンセンス絵本”である以上に、「ので」という言葉が一般的にそもそもナンセンスな言葉の接続を呼び起こすものであることを示す、という意味で“ナンセンス絵本”たりうるものなのかもしれない──そのような予感の下に、このテキストは用意されている。

 ただ、今後このテキストでおこなわれることは、そのことを明らかにすることで「ので」なる言語的な機能の一端を白日の下に晒すことではない。そうではなく、そのような予感の元に『のでのでので』を読むことによって、『のでのでので』で読者に経験されている“捲る”という動作そのものの読書体験におけるノイズ性についてより明確に知ることができるという期待を筆者が持っていることによる。通常の書籍においてページを捲る際、何かしらの煩わしさを感じたり感じなかったりしつつも“捲る”という行為自体を意識することはそれほどない。しかし、この『のでのでので』においては、タイトルですでに「ので」が何かしらの形で絵本の装置として使用されるだろう予感を読者にもたらしうるものとなっており、かつ実際に見開きの右上に「ので」が配置され、ページ捲りと「ので」の接続先の文内容の確認が同一の“捲る”という行為において達成される構成となっているため、読書行為に際する読者の意識においては「ので」の際立ちと同程度に“捲る”という行為が際立つものとなっていると言える。前後したが、この、読書に際する“捲り”行為の意識内での際立ちの在り様のことを上記で言う“ノイズ性”と呼びたい。そしてこの「ので」の“際立ち”=“ノイズ”の生起と同時に“捲る”という行為そのものの“際立ち”が起こることによって、「ので」が介在する出来事間の“因果関係”の取り結びそのものが“遊び”の対象──すなわち“ので遊び”となりうることを今回は指摘しようと思っている。

 

 

 絵本『のでのでので』の基本的な構成は下に引用する二枚の画像のとおりである。

pp.2-3

(図1)『のでのでので』pp.2-3 

pp.4-5

(図2)同pp.4-5

 既述の通り、「~ので」は見開き右上に記され、その結果を示す「~した。」「~なった。」などの述語は次の見開きの左上に記されている。少なくない見開きで、見開き中央部に「~ので、~した。」ないし「~なった。」という一文が、本の喉を挟んで左右に記されることもあるが(図4)、見開きの左上と右上の文はほぼ最終ページまで上記の通りとなっている。

pp.6-7

(図3)同pp.6-7 

pp.8-9

図4)同pp.8-9

 図1、2に戻ると、ページを跨がって完結する「~ので、~した。」あるいは「~ので、~なった。」の一文には、例外なく主語が書かれていない。例えば上記のp.3とp.4に跨る一文では、「とびあがったので」「はたを サッと あげた。」となっているが、この文だけでは誰が飛び上がったのか、誰が旗を揚げたのか見当がつかず、ともすれば「とびあがった」のも「はたを サッと あげた」のも同じ人物であるように読めてしまう。

 この主語となりうる人物は、見開きの絵に描かれている。例えばpp.2-3の見開き絵には飛び上がっているキャップを被った少年が描かれており、捲った先のpp.4-5の見開き絵には、直前の見開きで飛び上がったのと同じキャップの少年、および白いワンピースを着た少女が旗を揚げている様子が描かれているので、p.3で「とびあがった」のがキャップの少年、p.4で「はたを」「あげた」のが白いワンピースの少女であるとわかる。『のでのでので』はこのように、ある見開きに描かれた人物による、文に記された一つの行為が、「ので」を挟んで次の見開きに描かれる人物の行為を導いているように読むことのできる構成となっている。

 『のでのでので』ではどのページにも必ず背の高い緑色の生垣が、見開きを横にまたがるように描かれていて、見開き右の偶数ページで「~した。」ないし「~なった。」と書かれている行動をおこなう少年少女は、緑色のその生垣を背に、「~」をする様子が描かれている。それとともに、直前の見開きの少年少女の何らかの行動が生垣を挟んだ奥でおこなわれている様子も確認できる。例えば図2のpp.4-5では、生垣の向こう側で、pp.2-3で生垣の上に飛び上がった少年の小さな姿が確認でき、ワンピースの少女はそれを背にして旗を揚げている。また図3のpp.6-7では直前の見開きで少女が「あげた」「はた」を横目で見る少年が「はなびに」「ひを」「つけた」様子が描かれている。図4以下、基本的にはこの連鎖が例外なくpp.24-25まで続く。

 そして、pp.26-27(図6)において初めてその連鎖に綻びが生じる。pp.26-27では、表紙を捲った直後の見開きであるpp.2-3で飛び上がった少年と同じ背丈・服装をした少年が登場する。とりあえずこの少年を絵本最初に出てきた少年と同じ少年であるものと読む。この少年は、図6の通り生垣を完全に超えない程度に飛び上がる。そしてp.27の右端上の文には、それまでの見開きで書かれていた「~ので」で終わる不完全な文の代わりに、「びっくりしたので。ので。」と句点を伴った文が記される。次のp.28は絵本の最終ページであるが、そこには生垣のみが描かれ、それまでどの見開きにも必ずいた少年少女は描かれていない。ページ左端上に「ので。」と記され、またよく見ると、生け垣の右下に小さく「Gomi TARO.」と筆記体に近いローマ字で署名がなされている。

 

pp.24-25

(図5)同pp.24-25

pp.26-27

(図6)同pp.26-27

p.28

(図7)同p.28

 前ページのp.27で「びっくりしたので。ので。」と記されているので、それ以前の慣例には従わない何かが次のp.28で起こりうることが読者にとって十分に予想されうる。そして実際にp.28には「ので。」のみが記され、「~」をするはずの少年少女も描かれていないという事態が起こる。読者はここから遡る形で、p.27の「ので」の繰り返しが、「ので」によって示されるはずの結果の少年少女の行動がもはや描かれえないということが予告されていたのだと理解するだろう。この際読者は、p.28の「ので。」という文字表記と少年少女なしの絵の提示において、これまで繰り返された「ので」による接続がもはや機能していないことを把握しうる状態に置かれていると言える。

 もっとも、これまでの見開きと比べて例外が生じているのはpp.26-27だけではなく、その直前のpp.24-25(図5)にも生じている。これまでは次の見開きで「~した。」ないし「なった。」少年少女が直前の見開きに描かれることはなかったが、pp.24-25では、次のpp.26-27で「びっくり」するはずの少年が(再)登場する。この少年は再登場という点でも例外的な存在であるが、次の見開きで何かをする前の待機状態が描かれていることは、この先の近い将来、「ので」を介した連鎖にも何か例外的な事態が生じる可能性を示唆していると言いうるだろう。そしてその示唆に導かれた先には、最終ページの「ので。」という表記と作者の署名が存在する。

 とりあえず「ので。」という表記にのみ焦点を絞って話を続ける。『のでのでので』では既述の通り、すべてのページに背高の生垣が描かれているが、その生垣は緑の太い帯のように見開きに跨って横一線に描かれる。そしてその生垣は表紙から中表紙に至るまで、見返しと遊び紙以外のすべての場所に存在している。この生垣は、ページを捲った先に、「ので」で繋がれた何らかの行動を見せる少年少女の存在を匂わせる。その連鎖についてはすでに確認したとおりだ。ページを捲るごとに、生垣を挟んだ“向こう側”で何かをおこなう少年少女の存在の描写がなされるという実績として積み重なっていくにつれ、生垣を隔てたその奥に、「ので」で接続される次なる行動の準備をしている誰かが潜んでいるという確信めいた期待を読者は抱くことになるだろう。その期待とともに、読者にとってはページ一枚一枚がそのまま生垣の奥行きとなる。この期待は生垣が途切れない限りいつまでも続くものであり、それは最終ページにおいても同様である。

 つまり(署名を除いて)「ので。」が記される以外には何もない生け垣が描かれた最終ページでは、「ので」によってこれまで予告されていた連鎖が一旦終息したことを「ので。」という句点付き表示において明示しながらも、一方で生垣の存在が相変わらずページ内で途切れなく描かれていることによって、少年少女の存在するかもしれない奥行きを見せていると言えるだろう。

 もっとも、p.28の右ページは奥付にあたる情報が記されたページとなっており、そこには生け垣は描かれていない。また、そこを捲ると遊び紙と表紙が接着されている見開きとなり、そこにも生け垣は描かれていないため、左見開きの本としては生け垣の奥行きをもはや読者に提示できない状態にあるとも言える。署名の存在もまたその奥行きの続かなさを読者に感知させることに寄与している。

 しかし、最終ページのp.28は偶数ページであり、見開きの左に位置するページであるため、左見開きの本においてはそのページの裏側にこれまで捲ったページが積み重ねられていることから、これまでに積み重ねた奥行きが、「ので。」という表記とともに読者に提示されているとも言える。句点そのものはそれが存在する位置で文の読みを強制的に終了させる効力を持つ記号であるが、「ので」自体はその前後の行為ないし状態を、因果関係を持たせる形で接続する接続助詞であるため、「ので。」という表記自体はやや例外的な記法であると言える。そしてこの例外的な表記は、これまでのページ捲りの積み重ねにおいて経験されていた「ので」による接続機能を、捲りという動作とともに読者に思い出させうる。端的に言えば、この最終ページにおいて読者の意識が、「ので」という道具立てがどのようなものか、ということに向かうような準備がなされている。

 このことだけに注目すれば、「ので」を使った「ので」遊びなるものが読者に預けられていると言いうるだろう。つまり、この絵本で提示されていたのと同様に、生け垣の向こう側に伝わる何らかの行為を考え、「ので」でつなぎ、また次の行為を考え……という連鎖を考えるという遊びはほぼ無限に生成できるだろう。

 

 

 そのような「ので。」の提示に際して、一つの“例外”として用意されたp.25の少年の出待ち状態の際立ち方は、この「ので」遊びの“遊び”に寄与する「ので」という接続助詞そのものの性質を読者に気づかせるものとしても機能する。

 この少年の例外状態は、既述の通りpp.24-25の見開き前までに登場した少年少女たち(+犬一匹)の出待ちが一度も描かれず、見開きに一回きり、「~した。」や「~なった。」と表記される述語の主語として登場するということとの対比で際立つものである。つまり、彼以外の少年少女たちからは、「~した。」ないし「~なった。」と書かれる行為ないし状態を見せているという以外の状況を読み込む理由を見出すことが難しい。翻って、pp.24-25に再登場した少年は、再登場したという事情も併せて、pp.26-27で無邪気に「びっくりした」ようには見えなくなってしまうし、「ので」の先に、pp.2-3のように「とびあがった」と書かれなくなってしまった事情が何かあるのだろうという風にも思えてしまう。その“事情”を、最終ページに記された著者の署名の存在から、その著者の絵本の制作意図に帰すことも可能ではあろうが、今回はもう少し「ので」という表記そのものにこだわってみる。

 このような“事情”の存在の読みとりが可能になるということを逆に考えれば、そもそもp.2から始まった一連の「ので」の連鎖は、文で書かれた述語の主語となりうる少年少女たちが皆一様に、無邪気にその動作をおこなっていることが前提となっていたということでもある。そしてその無邪気さは、「ので」という接続助詞において示される因果関係を、文意のままに読者に伝えるはずである。つまりこの絵本では、「とびあがった」ので「はたをあげる」こと、「はたをあげた」のでパラシュートが「シュルシュル パッと」開くこと、「シュルシュル パッと」開いたので「はなした」こと、それぞれが「ので」を介して因果関係を持つものとして読まれるべき文となって提示されている。

 そのような読みにおいてのみ成立するはずの関係自体には“遊び”がない。つまり、それ以外の関係を想起する余地はない。「ので」が結ぶ関係性に疑いが向かない限り、「ので」はそう書かれてあるべき関係を読ませる接続助詞としてのみ機能する。そうした「ので」に“遊び”が初めてもたらされるのは、少年の(再)登場の際の出待ち状態、つまりじっとしている以外に遂行するべき動作のない状態が描かれたときである。そしてこの“遊び”は、「ので」で取り結ばれた二つの動作ないし状態の因果関係そのものにも“遊び”をもたらす。つまり、少年少女は必ずしも「とびあがった」ことのみを理由として「はたをあげる」わけではなく、また「はたをあげた」ことだけが理由となってパラシュートが「シュルシュル パッと」開いたわけではなく、「シュルシュル パッと」開いたことだけを理由として「はなした」わけではない、ということになる。その“遊び”が生まれることで、たまたま実現したのかもしれないそれぞれの行為ないし状態の変化の間にわざわざ「ので」という言葉があてがわれていると読者は文を読むことになるだろう。この「ので」の、ある意味無責任なあてがいこそが『のでのでので』の見せる「ので」遊びであり、さらに敷衍して言えば、『のでのでので』に限らず、各種事象に対して「ので」をあてがうことそのものが“遊び”であってそれ以上のものではない、ということにもなりうる。

 さらに、この「ので」が本のページ捲りに連動する形であてがわれていることに照らしてページを捲るという行為を考えれば、ページを捲るという行為もまた“遊び”であってそれ以上の行為ではない。ページを捲るという行為がなぜおこなわれるのかについてあえて答えるならば、そうすることになっているから、という以上の答えが出てくることはない。

 『のでのでので』における「ので」遊びとは、本のページを“そうすることになっているから”捲るという行為を介して、「ので」という言葉の接続もまた“そうすることになっているはず”の接続でしかないことを知り、そのことを知ってなお、日常で「ので」を使い続けページを捲り続けることである。

 

[1] 今回筆者が参照し、画像引用したのは2004年の復刻版である。

[2] 『ちへいせんのみえるところ』は『のでのでので』と同じく左見開きの絵本であり、ページを捲ると、左ページの左上に「でました。」という一言だけが書かれている。見開き全体には、曇り空と平原のような場所=「ちへいせんのみえるところ」が描かれ、そこに一つだけ何かが配置されているという図が延々と続く。エイのような生物が空中に浮いているときもあれば、大きな旅客船が描かれているときもあり、少年の顔の上半分だけがぽつんと描かれているときも、大きな火山が描かれているときもある。時々何も置かれていないページがあり、そのページには「でました。」の文字も書かれていない。その並びには脈絡があるとは言えず、ページを捲る毎になにが「でる」のか(「でない」のか)だけが唯一読者に提示されている絵本であり、そうした意味で、本文で書いたように「捲ること自体に何らかの面白さを読者にもたらしうる絵本」である。

[3] 例えば、香曽我部秀幸「終章 絵本表現の可能性──新しい世紀に向けて」(鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅲ』pp.379-399所収)内の第3節「絵本における絵と詞の位置」では、「絵本は絵と詞が互いに補完し合うことによって初めて成立するという特殊な性格を持った表現である。(中略)絵のみによって成り立つ純粋美術や文章のみによって成り立つ文学とは、根本的に異なると考えなければならない。『ちへいせんのみえるところ』は、それを見事に実証した稀有な作品と言えるのである。」とされている。ナンセンス絵本はしばしば「絵本」という「特殊な性格を持った表現」を「実証」するものとして取り上げられるが、ここでもその例外ではない。私個人としては、「絵本」でないとできない「表現」が存在することをなぜ「実証」しないといけないのか理解不能でありまた理解しようとも思わないので、以降このような言説の存在を無視する。