ウィトルウィウスの「建築十書」を読んでてちょっと面白かった点

今日は趣向を変えて読んだ本でちょっと面白かったと思った点について。

今回読んだ本は表題の通りだが、唯一の邦訳書の書名は『ウィトル―ウィウス建築書』(森田慶一訳注、東海大学出版会、1979年)。この版より10年前に同じ書名で、翻訳の元本となったラテン語が掲載されているものもあり、それも手元にあるのだけど、持ち歩いて読む分にはラテン語なしの方が薄いので普段はこっちを読んでいる。

で、必要があって三回目ぐらいの読み直しになるのだけど、最初の方で面白かったのが、各種学問と建築に必要な知識のすり合わせの説明について。

 

初歩的な歴史のお勉強になるが、ウィトルウィウスの建築書はルネサンス時代にレオン・バッティスタ・アルベルティという、ルネサンス型博覧強記の人に発見(正確には違う人が最初に取り上げたのだが)、再翻訳され、めでたくルネサンスの礎となった書物。ルネサンスにおいて博覧強記的天才が要請されたのは、この書において建築家が修めるべきとされていた学問が多岐にわたっていることに由来する。

ウィトルウィウスの書に書いてあることをそのままの形で引用すれば、

……建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである。(『ウィトルウィウス建築書』p.3)

上記の通り、書のかなり早い段階でこのことが書かれている。原書の『建築十書(De architectura libri decem)』にあるように『建築書』は全十書の構成となっているが、その十書全体においてこの態度が基本的には貫かれていると言っていい*1

 

それで面白かったのは、建築のために必要だと言われている学問そのものというよりも、それがどう建築に役に立つのかを説明している辺り。

まず「ん?」となるのが「哲学」の項目。

めっちゃ簡単に言えば、哲学においては寛容な心が涵養されるから必要、といったようなことが書かれているのだけど、それに加えて「自然論」も重要だ、と書かれている。ギリシャ期の自然学などは私もよくわからないけど、この世の理を捉えるというので相当に広範でかつ深く、難しい事柄を扱っている。またそこから政治学や美学などにも当然派生していくわけで、近代を経て建築において重視される「空間」なるものも、「空虚」とか言った方がむしろいいような扱い方ながら取り上げられている。

ぱっと「自然論」という語だけを見たとき、ちょっと抽象的な話なのかな、と身構えたのだけど、直後に書かれていたことは、

なぜなら、それは自然に関する多種多様の問題、たとえば導水における問題、を抱えているから。実に、流入部や屈曲部やゆるい勾配の平流部において圧力のために自然の呼吸がそれぞれ異なって起こるが、誰でも、もし哲学によって自然法則を知得しているのでないならば、そこに生じた損傷をなおすことができないであろう。(『ウィトルウィウス建築書』p.5)

とのこと。実に実学的な落としどころだと思い、非常に安堵した。ローマ期の「自然論」と呼ばれるものがどうであったのかは不学にして知るところではないのだけど、このように書かれることで、これ以後の書のスタンスが何となくわかったというところが最大の安心ポイント。

そして次に「音楽」が取り上げられるのだが、これも、

また、建築家は、カノーンの理論と数学的記号を身につけるために、さらに重弩砲や軽弩砲や蠍形弩砲の調子を正しうるためにも、当然音楽を知っていなければならぬ。

ときた*2

ちなみに弩砲とは、めっちゃでっかいクロスボウのこと。つまり弦を張って弓の要領で矢にあたるものを遠くに飛ばすための武器だが、その調整のために弦の音がある一定の音になっていないといけないということらしい。

ギリシャローマに限らず、弓の弦の音が音楽に通じているというのはわりと方々から聞く話だけど、武器の調整のために音楽の知識が大事というのはなかなか考えたことがなかった……が、確かに理には適っている。

ただ同時に、建築家がなぜ武器……? という疑問も生じる。武器を含めた機械類全般については第十書にまとめられているのだが、どうもこの機材の調整なども建築家の職務として考えられているようだ。弩砲についても図解付きでいくつかが十書に収められていて、その機構について建築の比例の原理を使用して説明されている。

音楽、と言えば、これも歴史の初学のおさらいだけど、ギリシャピュタゴラスに端を発する、世界の理を表す体系として理解されているものであり、建築と音楽というのは比例関係において深く結びつけられているものだ。なので、ここでもその話なのかな、と思ってたら、武器の調整で大事だと来たのでなかなかに刺激的だった。

もちろんその直後には音楽と直接関係のある劇場の音響の話においてその比例関係が取り上げられることになるが、その他取り上げられるものについても基本的には音楽の比例が重要だとの話なので、実学的な点と音楽の協和的な比例関係とが一定以上結び付けられていて、実践的に取り入れられていたのだと考えれば納得のいく扱いだと思った。

その後の「医学」についてはまた別の視点で面白い。冒頭にはたった一行しか書かれていないが、「……また健康なあるいは不健康な空気と土地の利用や水の利用のために、医学を知る必要がある」(p.6)と書かれていて、住まう人の健康を建築が担うものとされている。

近代の建築の文脈でも「健康」に関する建築の言説はあるが、基本的には都市レベルの公衆衛生に関する問題として捉えられていたものが次第に個人レベルに膾炙していったというイメージがある(私個人の主観的なものだが)のだけど、ウィトルウィウスの場合、「建築家」としてなすべき実学的観点を踏まえたうえでの個々の建物に住まう人々の「健康」への指摘であるので、近代都市において実害のあった病原菌への対処という側面が先に立つのではなく、およそ人が生きるということにおいてそうあるべき人の像が先に立っていると言える。

 

総じて面白いのは、「建築」においてはある種の実学的観点から各種の学問が必要だと言われている一方で、その必要性を遡るとギリシャ―ローマの文化を軸とした世界観がわりと直接的な形で反映されているとも言える点。

まだギリシャ―ローマの文化に対する解像度が荒すぎるのでこの見立て自体が水泡に帰すことも十分あるだろうけど、むしろそうであるほうが今後もこの本を読み進めるうえでより面白いことがいろいろと見えてきそうな予感がする。

*1:当然だが、『建築十書』はローマ期から写本という形で書き写されつつ継承されていったものなので、ルネサンス期に「ウィトルウィウス」のものとして残されていた書はかなりの確率で元本の原形を留めていないはずだとのこと。写本といっても中世のそれは、読んでいてよくわからないところに写本する人が説明を相当程度書き足したりしていたらしい。そのためなのかどうなのかはわからないが、ルネサンス期にアルベルティがウィトルウィウスを読んだ際に、これじゃ使えんとなって、相当程度並べ替えたり読みやすくしたりしなおしたとのこと。その辺のお話は、アンソニー・グラフトン『アルベルティ: イタリア・ルネサンスの構築者』(白水社、2012年)に詳しい。

*2:「カノーン」については省略。とりあえず形全体がより良くなるための比例の系列とだけ何となく把握しておけばよい。私も細かいことはわからん。