ウィトルウィウスの「建築十書」の続きで面白かったところ

veveve.hatenablog.com

以上が前回の記事だけど、これに引き続き面白い点があったのでメモっておく。

といっても、今回は一点だけ。

この前引いた場所から進んで、第一書の最後まで一通り読んだのだけど、基本的には城市の位置関係と内部の大まかな建物配置について書いてある。

で、その配置が基本的には「健康的」であることを基準として選択されるべきと書かれているのだが、その健康を保つ秘訣として語られているもののうちの一つが、市内から「風を取り除く」ことである。

 

現在の私たちの感覚から言ったら、健康を保つためにはなるべく風通しの良い場所がよいとされるはずである。

風通しが良ければ室内に埃はたまらず、新鮮な空気が常に入ってきてカビの原因となるような湿気も逃げていく……現代ではおおよそそのようなイメージの下、風通しのよさが健康と結び付けられる形で語られていると言っていいだろう。

その逆に、埃というものはおおよそ健康とは正反対の存在として忌み嫌われているものだと言えるだろうが、実はその嫌われ役に躍り出てきたのは割と近代になってから。

その辺りの話は、アドリアン・フォーティ『欲望のオブジェ:デザインと社会1750-1980』(高島平吾訳、鹿島出版会、1992年)の第7章「衛生と清潔」に詳しい。

簡単に言えば、近代の衛生意識の高まりとともに病巣として見なされ排除されたうちの一つが埃である、ということだ。

コッホが1880年代辺りに病原としての細菌の発見をしたというのは歴史のお勉強の中でも割と大きく取り上げられる事態だが、その前日譚として、細菌というものが病原であるというところに至るまで、別の様々なものが病原として嫌われの対象となっていた。

そのうちの一つが埃であり、あるいは空気の澱みであり、いずれにしても風通しのよさによって解消されるようなものばかりであった。

風通しのよさと健康の結びつきは、実は比較的新しいわけだ。

 

で、ウィトルウィウスの本の内容に戻るのだけど、こちらも簡単に言えば、要は風というのは場を乱して様々な要素を不安定にするものであり、足るべきものが足りない状況を生み出す原因として考えられている。

昔どっかで読んだうろ覚えの知識なので信用はならないが、確かギリシアの空間概念は「空虚」が基本であり、やがてそこを満たすべき相応しい物体があるはずだが、今現在は残念ながらその相応しい物体がないために満ち足りていない、そのようなものだったはず。

何かが足りない状態というのはそもそもが避けられるべき状態である、という前提に立つならば、そのような状態を容易に引き起こす風は、身体の調和的な状態から何かを奪う(熱、気、体液等々)ものとして嫌われる対象となるわけだ。

宇宙的調和を理想とする世界にあって、その調和なるものは平衡状態、つまり何かが突出しておらず、安定していて何かが不意に動かない状態のことである。そしてこの概念は人間の健康状態をも規定する。風はつまりその中にあって不安定を引き起こす直接的な原因であり、城市の建設にあたってはなるべくそれを内部に呼び込まないための設計が基本となる。

 

人間長く生きていれば考え方が真逆になることぐらい造作もないんでしょうね、といういい例ですね。この話は医学の進歩という話に片付けられてしまえばそれまでだが、多くの人間はその真の原因に注目するのではなく、それに付随して排除しやすいものを排除するわけで、そこには必ずイメージの介在がある。

現代であっても「菌」が忌み嫌われているが、毒があるのは菌そのものではなくその菌が出す毒素であるはずなのにもかかわらず、汚さが菌の多さで語られることが常である。これもまたイメージ。

だからこそ、このような近代とそれ以前との間の健康概念の相反というのは起こってしまうわけだが、このような事態は実は風のみならず水に対しても起こっている。その話はまた後日。