自作PCで使われる“コスパ”という言葉について

1. 導入

4年前に自作PCを始めてから、折に触れて“コスパ”、つまりコストパフォーマンスという言葉を耳にするのだけど、この言葉を聞くたびに違和感を覚えていた。

急激な円安や各産業の構造的な面の要因から多くの商品が値上げを経験している昨今、PCパーツもまた例外ではなく諸々のパーツの値段が上がっている。そしてその値上げによってPC一台を組む総額も上がっているが、それにつれて“コスパ”という言葉を聞く機会が増えてきた。

そして、そこでの使用のされ方に対して反駁のようなものを聞くことも増えてきている。よくある例では、金額が安い=コスパがいい、と語られているような類に対する反駁だが、その反駁自体にこそ実は例外なく違和感を覚えてしまうのであり、それがなぜかについて考えているうちに、4年前からの違和感がどういったところから拠って来るものであるのかがある程度わかるようになってきた。

私自身の現状の見立てとしては、自作PCに取り組むうえで“コスパ”なる言葉が示しうる局面は実はほとんどない、が、あえて使ってみることで自分が何をしたいのかがよりわかるようになる言葉ではある、といった感じ。

以下に書かれることは、そのことを考える上で言葉そのものについてもう少し付き合ってみると少し面白い話が出てくるよ、という内容。

ちなみにけっこう長い(6000字超)ので、お暇な方のみ読んでくだされば。

2. “コスパ”→“コスト”+“パフォーマンス”に分解する

あまりにも有名なので改めて確認する必要があるかどうかすら微妙だが、とりあえず原意に立ち返るという態度をとる際にまず確認すべきことは、“コスパ”=“コストパフォーマンス”は和製英語であって、それ自体は英語として何の意味も持たない言葉である、ということだ。

そんなことは私も百も承知なので、これから“コスパ”という言葉の原意に従って判断すべきだ、などとは言わない。恐らく現状、“コスパ”という言葉で語られる多くのことは、“必要”という言葉とセットになっており、「必要を満たすためにより少ない金銭で物事を達成する」といったようなニュアンスで使われているであろう。これまでも、これからもそのように使用されるだろうこと自体には何の憂いもない。

そして、自作PC界隈において、単に「安い」=「コスパがよい」というような形で使ってしまっている人に対しても特に何か感じることはない。多くの場面では、「安い」が単なる「安い」でないだろうことは明白だからだ(実はここが重要なのだがそれは後ほど)。

私はそこに違和感を覚えているわけではない。

そうではなく、むしろ、そもそも自作PCについて考える上で“コスパ”という言葉を使用することそのものがすでに変なのではないか、何か根本的に履き違えがあるのではないか、ということが違和感の根本にある。

このことを考える際、“コスパ”という言葉が、コスト+パフォーマンスという言葉の組み合わせになっていることを踏まえることで色々と見通しが立ちやすいと思われるので、まずは“コスト”と“パフォーマンス”のそれぞれの意味合いを、和製英語的な意味合いも片目に捉えつつ確認することにする。

  1. コスト

    コスパ”という言葉が使われる際、まずその念頭に置かれていそうな言葉がこの“コスト”だ。そして自作PCのパーツについて言われる多くの場合、基本的にはパーツの値段、あるいはパーツの総額のことが意図されていると思われる。

    しかし、“コスト”は本来、費用のみを意味するわけでは当然ない。英語の意味的には「犠牲、代償、損失」なども含んでおり、自作PCパーツで言えば、パーツそのものを購入したところでそれをPCとして機能するように組む作業なども“コスト”の範疇に入りうる。そしてそれに付随して、PCを適切に組んだり、組んだ後にやりたいことを実現するためのソフトの導入、あるいは組んだ後の定期的なアップデートや不具合が生じた場合の突貫的な対処に至るまで、知識を積んだり作業に取り組んだりする時間全般が“コスト”になりうる。いわゆる“機会損失”というやつ。

    例えば新大阪までどの新幹線を利用するか、という点で考えると少しだけわかりやすいだろう。のぞみ号を利用すると、だいたい1.3‐1.5万円ほどの料金で2時間半弱で到着するが、これをこだま号にすると3000円ほど料金が安くなることがある。その代わり、新大阪まで4時間と、1時間半ほど余計に時間がかかる。この場合、“コスト”として計算され比較されるのは、「のぞみ号1.3万+2時間半弱」と「こだま号1万+4時間」である。時間も当然“コスト”の範疇に入っている。

    自作PCパーツの話に戻ると、時間を“コスト”に加えて考える場合、特に重要な選択肢として登場するのが、パーツ専門店が用意している出来合いの商品(BTOパソコン)や、あるいは選んだパーツを自分の代わりに組んで自作代行サービスといったパッケージだ。“時間”をコストに入れる場合、パーツの代金にプラスして多少の費用がかかったとしても、自分で組むために必要な知識を得たり作業を実際にする時間がかからないこうしたサービスを利用するほうが“コスト”はかからないという判断が可能になる。

  2. パフォーマンス

    “パフォーマンス”という言葉は、恐らく「コストパフォーマンス=費用対効果」と考えている多くの人にとって、実はあまり馴染まない言葉なのではないかと思う。そして、そのなじみのなさが、“コスパ”という言葉を考える上で少しだけ面倒なのだろうと思われる。

    “パフォーマンス”とは何か。これも英語の辞書を参照すると、大まかには

    • 「業績、功績」といった数値的な成果から、「腕前」などの属人的な評価、「機能、性能」などの機械類への評価など、およそ現実に発揮される能力・行為への(わりあい肯定的な)評価
    • 「実行、遂行」など、何らかの行為を実際に行うこと(特に「演技、演奏」など、舞台上で観客に向かって見せるための行為を指すこともある)

    という二つの意味に分けられる。

    原意を考えれば、コストパフォーマンスという言葉で考えられている“パフォーマンス”とは、恐らく上にあげたうちの前者、つまり「現実に発揮される能力・行為への(わりあい肯定的な)評価」のことであろう。

    これを自作PCパーツに当てはめて考えれば、一番わかりやすい例で言えばCPUやGPUなどの性能のことになるだろう。しかし、自作PCに取り組もうという人においては、性能そのもののみを求めるだけではなく、冷却性能を追求する人もいるし、また綺麗に光るパーツを求める人もいるし、あるいは普段使いにおいて発揮する性能を求める形ではない、オーバークロックでより高い値を出すことそれ自体を目的にする人もいる。

    それぞれの人によって「評価」軸は異なる、つまり、求める“パフォーマンス”は異なる。

3. 自作PCに取り組むうえで“パフォーマンス”とは一体何か

さて、ここまでは“コスト”と“パフォーマンス”の二つの意味を、自作PCに取り組む際の具体例を引きながら考えてみたわけだが、上記のような近視眼的な具体例はこれまで恐らく色々な場面で、誰かが指摘していたような内容になっているのではないかと思う。

今度は、そもそも自作PCを組むということ自体の意義に立ち返って、この“コスト”+“パフォーマンス”について考えてみる。

“コスト”の項でも少し触れたが、人によっては自作PCをすること自体が“コスト”の範疇に入ってしまう。というより、社会的な常識では自作PCは趣味であり、何かそれに取り組むこと自体に特別な感情を持っていない限りは触れる必要のないものだとみられているはずだ。

そして現状、そうした作業に触れることなくPCを使用する仕組みが社会にはできている。現在多くの場面で使用されるのはノートパソコンであり、デスクワーカーなどの人はデスクトップパソコンを使用している人もいる、という程度だ。そしてその人たちはほとんどの場合、メモリ増設やストレージ増設などをおこなったことすらなく、あるいはそれができること自体を知らない。機械の調子が悪くなれば、修理・交換に出すか買い替えるかの二択しか選択肢はない。

そもそも上述したBTOパソコンが選択肢に上がること自体、とても少ない。最近はゲーミング方面での需要が徐々に伸びてきているが、(少なくとも日本においては)まだまだ一般的というには程遠い状況である。

割とありきたりな現状をわざわざここで確認したのは、PCを自作する、という行為自体が多くの人にとって“コスト”である局面が大半である、という点を確認したかったからだ。

また転じて、自作PCをわざわざ選択肢として持ち、あまつさえその作業を積極的にやろうという人にとっては、PCを自作する、という己の行為自体を“パフォーマンス”の範疇にあると見なしている、つまり、現実に発揮される行為(=自作)へわりあい肯定的な評価を下している、という点もまた、ここで確認して起きたい。

そしてさらに言えば、ここで言う自作PCの“パフォーマンス”性は、“コスパ”という言葉で語られうる範疇を逸脱している。つまり現状市井に膾炙した“コスパ”という言葉の使われ方から考えれば、PCを自作することの価値は、“必要”性を問う“コスパ”の評価軸では計れない物事である、ということになる。

“コスト”の項で挙げた東京─新大阪の例を、さらにここで利用する。

先ほどの例では利用する交通機関を新幹線に限定したが、極端に言えば徒歩でも東京から新大阪に向かうことは可能である。ただ、徒歩で向かうとなると、東海道五十三次というかの有名な作品の名前にあるように、かつて江戸時代では東京から大坂(現大阪)までには五十三か所もの宿場が存在し、だいたい半月ほどかけてそれらの宿屋を利用しつつ向かっていたわけで、それは現在でもほとんど変わらないだろう。これを実際におこなおうとすると、15日もの間の飲食費や宿泊費、あるいは衣料購入費、医薬品の購入費なんかも必要かもしれない。また事前準備などで、この旅程で利用するための各種装備などの費用を換算すれば、新幹線の費用程度で補填することなど到底不可能である。普通の人はほとんどの場合、新幹線を利用するだろう。ただ、それでも人間には意志というものが存在し、かたくなな意志に基づいて大阪まで徒歩で向かうということをおこなう人もいる。そしてその人の中では、大阪まで徒歩で向かう、という行為そのものに対して大きな価値が見出されていることになる。この“徒歩”に見出される“価値”は、“コスパ”という和製英語が現在使用されている範疇から考えれば、その“パフォーマンス”面として考えるにはあまりにも“コスト”が大きすぎる。つまり“必要”性が皆無なのだ。常人であれば東京─大阪間の旅程として選択肢には上がらないだろう。

これは極端な例ではあるが、要は、PCを購入するうえで自作PCが選択肢に上がる、ということは、多くの人にとっては、東京─大阪間の旅程として徒歩が選択肢に上がる、ということと同じ範疇にある。

もう少し言い換えれば、多くの人にとってPCを自作することはあまりにも“コスト”が大きすぎて、“必要”を伴う“コスパ”の範疇で語りうるものではない、ということだ。

また、これを逆に言い換えれば、少数のPCを自作する人にとっては自作という行為そのものが“パフォーマンス”であり、それ自体に価値があるので、もし“コスト”として語りうるものがあるとすれば、それはおよそ金額のみである、ということになる。これは多くの人にとってはかなり異例なことだと言えるだろう。

4. 違和感の正体と、実はわりあい正しかった“コスパ”の使われ方、及び試金石となる“コスパ”という言葉の使い方

話が見えてきた、というか9割がた話は終わっているが、つまり、私が自作PC界隈で“コスパ”という言葉が使用されるたびに頭に湧いていた違和感とは、自分がPCを自作することにおいて何をやろうとしているのか、何を求めて自作PCに取り組んでいるのか、という自覚がない人が多いことである。

端的に言えば自作PCは趣味の範疇でしかない。

現在ではパーツをすべて自前で購入して自分で組んだとして、BTOパソコンと比べて安くなる度合いはせいぜい1割未満、数パーセントであり、それと引き換えに保守・保証や作業時間を失うことは、通常の選択肢としてはほとんどありえないと言っていい。

自作という行為が選択肢に上がる人はつまり、多かれ少なかれ自作すること自体に価値がある、楽しい、と思っているということに尽きる。

そしてその欲求は“コスパ”で語られる範疇のものではない。

なぜそれがわからないのかがわからない、というのが、私の違和感の正体だ。

 

ただ、“コスパ”という言葉に代わる便利な言葉がないということも確かではある。

このパーツ安く買えてめっちゃうれしい、と言うより、このパーツコスパめっちゃよかった、と言った方が語感もノリもよい。そして語感もノリもよい言葉は、会話が続きやすい。それほど厳密な意思疎通を求められないコミュニケーションツールとしての言葉の使用の在り方から考えれば、“コスパ”という言葉自体のコスパはとてもよい。そういったものとしてこの言葉が使用されているということは、恐らくこのように言葉に出さずとも普段多くの人が感じていることではあると思う。

そして、今あえて「安くてうれしい」=「コスパがよい」という感じで言い換えたのだけど、前節の終わりの話を踏まえれば、仮にこの界隈で“コスパがいい”という言葉の“正しい”使い方があるとすれば、それは「値段が安い」という一点だけでよいはずだ。

この特殊な界隈では“PCを自作する”という範疇に入る作業は基本的には“コスト”たりえない。だから、同じパーツでも安ければ安いほど“コスパはいい”と言える。最初の方で「「安い」が単なる「安い」でないだろうことは明白だ」と述べたが、それはこういった顛末を踏まえてのことだ。

そしてこれと同じようなことが、ジャンクパーツを求める人にも言えるのではないかと思う。チョー安い、けれども怪しいパーツを買って、何か仮にそれで動作面の苦労があったとしても、その苦労を乗り越えようとする作業そのものがそのパーツを買った人にとって価値あるものなのだから、その人にとっては安ければ安いほど“コスパ”はよい。

自作PCに取り組む人は、多かれ少なかれこうしたジャンクパーツ的な“コスパ”観に基づいた評価軸を持っている人が多いとは思う。ただ同時に、そうした突き抜けた欲求を実はそれほど持っていない人、あるいはそのことに自分でまだ気づいていないという人もまた、特殊な界隈であるとはいえその界隈の多勢を占めているのではないかとも思う。

自分がどのようなパーツをどのような値段で購入したときに“コスパがいい(悪い)”と感じるのか、を掘り下げていくことによって、自作という行為に自分が何を求めているのかがよりはっきりとわかってくるはずなので、今一度自分が思う“コスパ”について考えてみると、次の買い物ではより幸せな結末を迎えられるのではないか、と思う次第。

かしこ。