このブログを始める前に、数年前までほとんど毎日書いていた別のブログがあったのだが、数年経ってしまうと毎日こうしたことに取り組むということ自体が非常に億劫になってしまっている。
別段、今更毎日何かを書くこと自体に異議を見出すということもないのだが、しかしそれでも以前続けていたブログの記事を読んでみると、インプットしていた情報の整理をおこなっていたり、割合精力的に日々の活動をしていたことがうかがえる。
翻って、いまこのブログで書くことが億劫になっているのは、インプットそのものが減っていて、書く内容があまりないということも大きな原因となっているように思われる。
数年前と比べれば趣味が増えたので、日々得たい情報が増えているのだが、それらの情報は鮮度というか、速報性が非常に大事になってくるもので、それらを追いかけていると日々が忙しなくなってくる。以前のブログ記事でまとめていた内容は、基本的には読んだ一冊の本の内容や、それに関連した数冊の文献、ウェブ情報などだった。それらは速報性は特に重要ではなく、むしろ時間をかけて正確に読むべきものだった。
もっと具体的に言うと、例えば、今、自分はメカニカルキーボードにはまっていて、いくつか過去に記事も出しているが、今手元には筐体がすでに10個前後あるような状態になっている。そして、これに加えてすでに3つほど購入予約をしており、これからさらに筐体が増える予定だ。手元にあるキーボード一つ一つに対して簡単なレビューを加えようと、いくつか実際に下書きとして残してあるものもある。しかし、この記事自体に自分として何か価値があるようには思えない部分があるので、結局お蔵入りとなっている。
それは、もちろん自分がまだメカニカルキーボードについての知識が浅く、それらのキーボードを比べる際に何をどのように伝えるとよいのか、という点の取捨選択の基準を定めることができない、ということも理由となっているが、もう一つ大きな理由として、手元にある筐体をここで紹介したとして、1年も持たずにあっという間に市場から消えてしまうこの筐体を紹介し、その記事をアーカイブすることに一体どれだけの価値があるだろうかと疑っているという点もある。
他にも自作PCのパーツについてもレビューを書こうと思えば書けるのだが、同じような理由で結局表に出ていない文章はいくつもある。ただPCパーツについては、アーカイブをすればそれが20年後ぐらいには歴史を追う上で貴重な資料となったりすることもあるのだろうが、その価値は記事の内容そのものというよりは、むしろ骨董価値に近いものであって、その価値は自分がどのように記事内容を精査するかどうかということとは全く別の価値基準によって測られるものである。
……というような言い訳を並べて、延々とブログ記事を更新しないことを正当化しようとしているが、この正当化を一体誰に向けておこなっているのかと言えば、それは紛れもなく自分だ。
そしてその言い訳の根幹には、インプットをさぼっているということへのぬぐい切れない罪悪感がある。しかし、この罪悪感もまた、言ってみれば根拠のないものであって、別にインプットをしなくてもだれからも怒られることはないし、損をするのは自分だけである。
ならばなぜ、と思うことしきり。
しかし、外側から要請される必要性とは別に、こうした自分自身の行いに対する倫理的な正否の判断が自分の行動に対し課せられるという経験は、その大小にかかわらず誰にでもありそうな気がするし、結局は誰かから要請されたり強制されたりしている中でも、その自らの持つ倫理的判断が最終的には物事を前に進めるための唯一の原動力となると思われる。
言ってみれば、そうした自分自身の行いに対する自分自身の疚しさの感覚が、唯一無二の原動力となる。そしてその疚しさ故に吐き出される文章を、日々書きつけることに意味があるとすれば、日々頭を擡げてくるその疚しさを何とか宥めて、お布団でストレスなく寝られるようにする、ということにあるのだろう。
とりあえず、閑話休題、みたいな感じの記事を一つだけ公開して、明日以降の自分がどのようにこの場所を構築していくのか、期待せずに眺めることにする。